暇人の日記保管庫

文字通りのアレです

思ったこと(菊地良さんの批評再生塾の課題について)

(文中敬称略しております)

「「細部」に宿る「?」を探せ」講師:渡部直己より
「きみは死んだらおしまいだから、だから私は何度だって、死ぬなっていうし、世界を憎もうっていうよ」http://school.genron.co.jp/critics-papers/paper-2015/%E3%80%8C%E3%81%8D%E3%81%BF%E3%81%AF%E6%AD%BB%E3%82%93%E3%81%A0%E3%82%89%E3%81%8A%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%84%E3%81%A0%E3%81%8B%E3%82%89%E3%80%81%E3%81%A0%E3%81%8B%E3%82%89%E7%A7%81%E3%81%AF%E4%BD%95/


上記URLは 菊地良さんの批評再生塾への提出した評論のリンクである
さて『これの疑問点を書きなさい』という宿題がでたので、書いているが、全く興味のないものについて書くのは本当面倒くさい
ともあれこの文の問題点を書いていこう
(文中の私たちの使い方の、大塚経由吉本行きの感じ『それ自分と他人の異差が融解してるよね』とかはまあ個人的な嫌悪感なので除害)



1、文中で『である』と『ですます』の混在
意図はわかるが、多分この手の先駆者である佐々木敦さんの『批評時空間』を読むと、『批評時空間』のコンセプト(連載の一回一回形式を変える)にも関わらず一回内での基本的な文章は一貫している
有り体にいうと、『ひとつの論で文章がいったり来たりしてる』という、普段文章を書いてない人にありがちなミステイクにしか見えない



2、内容の解離
『文は内容をあらわす』という通り同文は、『批評→はるしにゃんとの思い出→批評→岡崎京子論→結論』という構文でなりたっている
が、ハッキリ言えば、批評再生塾の課題部分と、はるしにゃん部分と、岡崎京子部分が繋がってない
とうとつにはるしにゃんとの思い出が語られ、とうとつに、岡崎京子が顔を出す
書いた当人の頭の中では、繋がっているのだろうが、読者には『どの繋がりでこの単語は出てきたんだろう』と疑問符がでる



3、これ批評じゃないよね
さて、当人もTwitterや本文で書いている通り、この文章は直接的には『はるしにゃんの死』が前提としてある
しかし、読者はハッキリ言えば『「細部」に宿る「」を探せ』というテーマの文章を読んだつもりが、『見ず知らずの人物の追悼文』を読まされてしまう事になる(主にですます調部分)



菊地良さん本人からは
『僕の文章がそもそも再生塾のタブーに触れているので』
http://www.movatwi.jp/log/18gFNN8VJl
というツイートを頂いているが
僕自身の意見を書けば、『手垢のついた形式で、故人を忍んでいる』
ようにしかみえないのである(もちろんさういう形式や、文章自体の誠実さを否定してる訳ではないが、ハッキリいってしまうと、陳腐の二文字しか浮かばなかった)

批評時空間

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