暇人の日記保管庫

文字通りのアレです

カラシュン自ら語る時系列まとめ仙台編

前回の続き。仙台時代の唐沢俊一さんの裏モノ日記での回想と2ちゃんねる有志の検証

252:11/29(月) 16:31
2001年12月08日(土曜日)
>仙台にいたとき、駅ビルの日替わりランチが実に私の嗜好にあったまずさで、
>日曜除いた週6日、そればかり食べていたことがある。

日曜除いた週6日というのは、学校のない日曜日はその駅ビルに行かなかったという事なのかな?
東北薬科大学は宮城県仙台市青葉区小松島4丁目4−1で、仙台駅まで約3キロだけど
この駅ビルというのは北仙台駅東照宮駅の事だと思う。
この文章だと、通っていたという感じだね。
(後の書き込みで唐沢俊一さんが仙台にいた時期や列車の路線から考えると駅ビル云々がおかしいという意見が)

2002年05月02日(木曜日)
>さらに昔、大学時代、ことに仙台にいた自分は仙台市体育館宮城県スポーツセンター、
気仙沼あたりまでしょっちゅう足を運んで、めったにテレビ中継もない田舎プロレスの
>醍醐味を味わっていたものだった。シンのサーベルのうなりやブロディの鎖のジャラジ
>ャラをすぐ耳元で聞けた(ローラン・ボックの、イヤミたらしい技もほとんどリングサ
>イドで見られた)のは仙台時代の数少ないいい思い出のひとつである。

唐沢=プロレスというと「知りもせずにダボラ吹くな」だけど、数少ないいい思い出と書いている。
この辺に関してはウソをつく必然性もないので、本当のことなのかなぁ
唐沢の場合は、記憶違いという部分も年表を複雑にする要因であるけど。

2003年06月12日(木曜日)
>仙台に下宿していたときも、マンションの四階で、エレベーターなしの四回はキツくて
>いやだなあ、と思っていたが、大家は“四階がいいですよ、網戸なんかしなくても蚊は
>入ってきませんし”と言っていた。蚊は三階くらいの高さまでしか飛べないのだそうで
>ある。確かに仙台にいる間じゅう、蚊に刺されたことはなかったように記憶している。

253:11/29(月) 16:32
2003年09月08日(月曜日)
>昨日、と学会例会で原田実氏が山東京伝黄表紙を紹介していたので、ひさしぶりに善
>魂悪魂の登場する『心学早染艸』を読みたくなり、引っぱり出してきたもの。
>思えば仙台で引きこもり同様の学生生活を送っていたとき、ちょうど新刊書店で発売さ
>れたばかりだったこの文庫をむさぼるように読んでいた。あのとき、私の胸に巣くった
>のは、善魂・悪魂ど ちらであったろうか。

2003年09月15日(月曜日)
>広岡西武に勝って日本一になった時は覚えている。あのときは用事があって仙台に行っ
>ており、仙台空港の狭いロビーのテレビでその瞬間を見ていた。

2009年03月10日(火曜日)
>もうひとつはさらに古く、阪神優勝の1985年に、
>熱狂したファンによって道頓堀川に投げ入れられたカーネル
>サンダース人形が24年ぶりに発見されたというニュース。
>24年前の、まさに優勝の瞬間を見たのは、仙台空港の待合室
>だった。空港までの送迎バス中でもラジオで試合模様がずっと
>流れ、待合室のテレビでその瞬間を見られた。ピッチャーの
>ゲイルが何かやたら興奮して、ずっとワオワオ叫び続けながら
>投球していたっけ。

仙台空港という事は、東京へ行くのではなく札幌へ行くためだったのか?

2007年11月09日(金曜日)
>今月のお題は『湘南爆走族』。
>仙台にいた当時、この作品に出会って、何気なく読んでいる
>うちにこれはすごい、とハマりこんでしまった記憶がある。
>主人公以外のキャラを大事にしない『バリバリ伝説』に比べ
>脇の方に至るまでの登場人物全員にドラマがあった。

追記
唐沢俊一さんが札幌とヤマトについて語った裏モノ日記での記述(うpしたかたに感謝)

362:11/30(火) 18:23 [sage]
「裏モノ日記」2003年11月02日(日曜日)
>雑談中に札幌がなんでオタクの発生地みたいになったんです かねえ、という質問が出たので、
>少し詳しく話す。
(略)
>その連帯のきっかけになったのが1975年からのヤマト再放送運動であり、この場合、
>東京や大阪という大都市に比べ、札幌は地方局が、ある程度リクエスト葉書の数が集まれば、
>再放送をしてくれていた。このため、最初は普通のドラマなども再放送していたSTV
>(札幌テレビ)やHBC(北海道放送)の4時〜5時台が完全にアニメ再放送枠として
>定着してしまった。

さらなる追記
2ちゃんねる有志が『「宇宙戦艦ヤマト」と70年代ニッポン』という本に以下の記述を発見。おそらく唐沢俊一さんのヤマト話はここらへんが大元である可能性がある(件のサークルがアニソンのサークルだった情報からも唐沢さんのよりはありそうな話ではある)

以下引用
放映時のシングルセールスの惨敗の泣かされた木村だったが、時代
>の変化を感じ、『ヤマト』のドラマ編レコードの発売を決断する。
> 当時サントラ盤と銘打たれたドラマ編は一九七七年七月二五日に発売。ちなみに、映画公開は翌月
>六日である。『ヤマト』の再放送が北海道エリアで終了した直後ということもあり、札幌市のレコー
>ド店玉光堂で爆発的に売れ、これが全国へと広がっていった。(木村英俊『THE アニメ・ソング』角川書
>店、一九九九年)。
引用終わり